知多木綿の歴史
知多木綿の歴史は、江戸初期の慶長年間(1596〜1614)に江戸送りが始まった、と伝えられています。初期には生白(きじろ)木綿として生産され伊勢に送られて「伊勢晒(さらし)」とか「松坂晒」として江戸に送られていました。
その後、江戸中期の天明年間(1781〜88)に岡田村の中島七右衛門らが晒技術を導入して以来、「知多晒」としての名声が高まり、江戸送り日本一ともいわれるようになりました。 耕す土地の狭い知多の村々では、副業として糸車を回して糸を紡ぎ、ハタゴでの機織りは、子女衆の大切な仕事でした。また、家々では自家用に「家(うち)織り」と呼ばれる藍染めを主とした縞木綿も織られ、『機を織れないものは、嫁に行けぬ』といわれたほどでした。
明治中期には、工業化が進み岡田村の竹内虎王(とらおう)が動力織機を発明し、生産向上が図られましたが、豊田佐吉の自動織機の発明と普及には、およびませんでした。
昭和年代、知多・松坂・泉州が日本での三大綿織物生産地といわれ、機械の自動化も著しく、消費者の好みに応える高級、高品質の綿布が大量生産されました。 しかし、現在主力生産は、アジア諸国に移り日本各地の生産地は衰退していきました。
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岡田で最初の木綿工場、中七木綿第一工場 -
昭和時代の工場内部 -
旧浅田繊維工業(株) -
現代の工場内部
そのような中、昔ながらの知多のハタゴによる手織り木綿の風合いは格別で、機ごしらえの作業に先人の工夫が偲ばれて、知れば知るほど味わいの尽きないものです。